「尾てい骨骨折は一生、痛みます。治療方法はありません。自然にくっつき、痛みが和らぐのを待つだけ。鎮痛剤ぐらいは出せますが」
――そんな話を病院でされたことがある。
調べてみると、尻尾の名残だという尾てい骨には、特に機能がないらしい。
先祖の名残り、役割のない骨、治療できない場所、終わりのない鈍痛。
詩的すぎる。全然嬉しくない。ぼやきながら、ヒビの入った尾てい骨と過ごし、三年が経つ頃にはその存在を忘れた。
心の傷は、尾てい骨骨折と同じ。久しぶりに疼いた傷でふと思う。
悔しくて、悲しくて、恥ずかしくて、情けなくて、腹立たしくて、絶望的。
そういえばそんなことがあった。
傷ついて傷ついて根治が難しく、曲芸じみた対処療法を繰り返すうちにようやく忘れかけていた諸々。
それでも以前よりましなのは、優しい友人に話すことができたことだ。
あのときは泣きながら大福を食べることしかできなかったけど、今夜は何があったのか言葉にできた。
と同時に、雨の日に階段から滑落するぐらい、不運でどうしようもない事故的な傷つきだったと、因果なんかどこにもないのだと処理できて、少しすっきりした気分に。
こうやって「消えない痛み」は「気にならない痛み」に格を下げていくのだなぁ。
失くなりはしないが、追い詰められるほどでもない。尾てい骨的な存在感。
そのために日々食べ、働き、笑い、歩くのだと思う。
それはそうと八月十五日だった。
今号も『暮しの手帖』の企画が素晴らしく、なかでも高橋源一郎さんの「戦争は語り継げない」というインタビュー記事に心惹かれた。
また、その言葉から体験記事に遡って読むことを勧める取材者のテキストも素晴らしかった。
体験を体験としてただ渡すことは非常に難しい。ほぼ不可能である。
ただし、体験を共有された体験は、届く可能性を残している。
わたしのこの徒然なる記録もまた、どこかでは誰かの「読んだ」という体験になり、何かの杖になる日がくるかもしれない。
もちろんそんな特別な薬効がなくても、残らなくても、知られなくても、一人ひとりの日々そのものに意義はある。
そう思える平和が当たり前であってほしいし、今の世界がそうではないかもしれないと疑う視点も大事にしたい。