2022年 7月31日(日)

編まされる

胃がぐるぐるする。また飲みすぎた。

でも楽しかったなぁと日曜の陽気を浴びながら思い出し笑いする。悪くない二日酔い。

展覧会がはじまってからよく行くようになった角打ち。昨晩で今月五回目。店主はもちろん、ついに常連さん達の名前も覚えはじめた。






昨日はお客がふたり。

昼に来たMさんとは、スリランカ料理店で長々おしゃべり。

夏休み展が想像以上の濃さでぜいぜい息切れしたけど、おもしろかったという感想を聞いて、企画者のHさんの話を思い出した。

「その命が延びるように、あえてちょっと部分的に殺す」みたいな話。

Hさんは美術館という社会装置そのものに対して使っていた。「大好きな美術館を生かすために美術館をちょっと殺す企画をしたいの」と。すごい表現だ。

それで今朝改めて検索してみたけど、彼女の言葉が綴られた記事や冊子にはそこまでの表現は出てこなかった。

わたしの思い違い? 書き言葉ではまるめたのかな?

ともあれ、まぁだいたいそれで合ってるのではと思う。「あえて部分的にちょっと殺す」という覚悟が好きだ。

おしゃべりしていたMさんもその話に笑いながら、わたし自身にもその気質があるんじゃないかみたいなことを言っていた。

「命の危機が迫ってないのに、サバイブしてる感じがしますよ」

自分で追い詰めてるってことか。うまいこと言うなぁと思いながら、若くて優秀な彼女を駅で見送る。

そんなMさんの話で印象的だったのは、編み物が好きだという話題。

好きすぎて厳しい師匠のところに弟子入りした結果、毎月辛いというオチまでよかったんだけど、この一言が忘れられない。

「編んでるうちに、自分が編んでるのか、糸に編まされてるのかわからなくなるんです。たぶん編まされてるんだと思います」






帰ってきて夜。

さてそろそろご飯も食べたし締めの作業にかかろうかなと思うあたりで、今度はNくんからメッセージが届く。

美術館の地下のお店でひとり飲んでいて、この後、例の角打ちに行ってみます、とのこと。

なんだか今日は十歳下の若者たちと縁がある日だと思いながら、せっかくだし角打ちで合流することにした。そしてだいぶ飲む。

Nくんと初めて知り合ったのは、彼が学生のときだった。わたしは仕事で、彼は思わぬ冒険のような時間の中で。

気づけばもう立派な社会人で、そして今も変わらず、会社勤めしながらつくる人たちとの刺激的な時間を過ごしている話を聞く。

出会っちゃったら仕方ないよねと思うし、出会っちゃったと思えた人はもう抜けられないよねぇと思って、にやにや笑いながら飲んだ。

彼もまた展覧会を観た帰りだったので、再び「ちょっと殺す」の話をした。こんなに話して間違ってたらHさんに悪いかなぁ……でもまぁ、いいか。たぶんあってるはず。






Mさんにしろ、Nくんにしろ、ちゃんと話したことがなかった人たち。それなのに声をかけてくれるのが嬉しいし、話して楽しかったのが嬉しい。

きっとどちらも、糸に編まされているような毎日を、それぞれ生きている感覚があるんじゃないかな。

その受動と能動のあわいの感覚は、自分の人生がものすごく主体的で、コントロール可能なものだと過信するよりも、美しいし信用できる。仲間が増えたような気持ち。

また遊んでくれるといいな。

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