「ふつうがどんなだったか、わからなくなってしまって」
今日最後のオンライン会議が終わったあと、会議相手のAさんからメッセージが届いた。「寝られてますか? 元気なかったし、しんどそうだったけど」とのこと。
不調に気づかれた気まずさと、気づいてもらえた安堵で複雑な気持ちになる。確かにわたしは今、少し調子が悪い。
「元気であることよりも、『ふつう』を日々目指す感じでもいいかなと思ったりしますが」と言葉をもらい、Aさんはいつでも優しいなとしみじみ感じる。
だけど、それを聞いた自分からぽろりとこぼれたのは「ふつうがわからないんです」という弱音だった。
そう。最近ずーっと思っていた。たしか昔のわたしはもっとふつうに集中できて移動できて生活できていたはず。
その加減はどんな感じだった? 毎日どれくらいできていたんだっけ? わたしの「ふつう」はどこにいつ消えた?
ずっと疲れているし集中できないしお酒や過食に逃げがちである。確実に健康を害するとわかりながら口に物を入れ続けるとき、そのこと自体に癒されるというか安心してしまうのは、一種の自傷行為とも言える。
自覚している。調子が悪い。
仕事部屋のエアコンが相変わらず壊れているので、ここ二日はIさん達のアトリエを間借りしている。
Iさん兄と雑談しながら出てくるわたしの言葉がやや後ろ向きなので、なんとなく調子の悪さが加速してる気はしていた。
一度自宅に戻り、Aさんのメッセージを思い出しながら散歩に出て、養命酒を買った。効くとか効かないとかじゃなくて「養命」という字面にお守りのような感覚を抱く。
どうしたかなぁと疲れてるだけかなぁとずるずる身体を引きずるようにして家を目指す。養命酒の瓶が重い。養命は重い。
家の近くまできたところでばったり大家さん先生に会って、立ち話をしながら一緒に帰る。
「日記本読んだわよ。もう二冊目まで。おもしろいわね。笑いもあって、シリアスなところもあって。そうだったのかと思いながら読んだわよ。なかなか読ませる文章だし、あなたやっぱり、物事の捉え方がユニークだわ。一気読みしちゃった」
と、主要登場人物に褒められる。嬉しい。そういえばミュージアムショップの店長からも、週末はもう少し売れそうだからと追加納品の依頼が来ていた。
へろへろだけど、くたくただけど、喜ばしいこともある。Aさんも展覧会の関連トークで来月千葉にくるはず。久しぶりに会って、お話ししよう。
ひとは薬。