ぼーっとしていたらバターロールが真っ黒に焦げ、電気料金の支払いが八ヶ月分溜まっていた。
嘘でしょう、と、届いた封書を見て思う。支払い方法を勘違いしていて、ショートメールで届く料金案内を見過ごしていたのだ。
こんなんでこの先大丈夫だろうか。生きていけるんだろうか。郵便局で振り込み手続きをしながら不安がよぎる。
ついでに記帳をしようと思っていたのに、通帳が見つからなかったことも暗雲を濃くした。
「なんだか気持ちいい、強がってるのとも違う決意だね」と、夜、友人に言ってもらった。パンは焦がすし電気は止められそうになるし通帳は見失うけど、それでも、それでも「ひとりでできること」をもっと増やそうと思う話をしたのだった。
ちょっとした手続き、お金のこと、新しい技能、車の運転だってそう。
もちろんここ数年はそれなりにやってきたつもりだったけど、どこかまだ、曖昧な「誰か」に頼ろうとする感覚があった。
その隙があると何かいいことがあるような、願掛けやジンクスのような感覚だったんだと思う。
でもその微妙な隙間はむしろ面倒事を引き寄せてきた。と、最近になって気づいた。あれもこれもそれも全部、元を正せば隙にある。
四国にいる間、一冊のノートにたくさんのもやもやを書き綴った。
そこから自分の生活や生き癖や働き方を紐解いていくと、いくつかのパターンや不安や苦手の根元が見えてくる。そうして自分への処方箋を間違えていたことに気づいたのだった。
わたしに必要なのは、同じゲームでいつか勝つことを期待して繰り返しリセットボタンを押すことではなく、ゲームに依存しない状態に身を置くことであった。
それに気づいてから何かスコンと抜けた音がして、日々がぐっと楽になった。
公私ともに繰り返してしまうややこしい人間関係のほつれに、もう巻き込まれない予感がする。
献身的に「接待」や「ケア」をすべき相手は、まず自分であるとちゃんと理解した。ずいぶん抽象的な話だけれど。
ひとまず、パンは焼き時間を覚えればいいし、電気料金はクレジットカード払いにしたし、通帳はちゃんと見つけられた。大丈夫、なんとかなる。