「人間という全体存在を心と体に区分した途端に失われるもの、それを『たましい』と考えてみてはどうであろう。それは連続体の本質である。
(中略)
たましいがあるというのは、あらゆる明確な区分を前提とする考えに、待ったをかけることである」
(河合隼雄『猫だましい』)
メディアというメディアが銃撃事件を伝えている。
こんな今日がくるなんて、昨日は思っていなかった。
わたしの心と体は、その日やってきた出来事にびっくりし、予想だにしなかったことを語りたがる。
わけもわからず騒ぎたい衝動を、自分の内側でシャーレに乗せる。まずはよく眺めることで衝動的な反応を抑えてみる。
死という存在がバチバチッと跳ねている。死という存在の輪郭が急に具体的になり、不意に思い出す。
誰しもに関わりがあり哀しみや恐れを想起し、ときには見知らぬ人のことまで悼むことができること。
立場の強い人にも弱い人にも等しく訪れるものだということ。最短で大胆な解決が欲しいとしても、殺人がその答えにはならないこと。
同時に死を纏った瞬間、非常に触れにくい存在になってしまうこと。すべての可能性がプツンと途切れる音がする。消えてしまう。
当たり前なのに、こうして目の前に出てくるまで思い出せない。そのこと自体が非常に悔しく空しい。
だからこそ、腹が立とうと苦しかろうと矛盾だらけだろうとこの世界で睨み合い、殺す以外の方法を探さねばならないのだ。と、思う。
わたし自身は多数派からは溢れがちな個人である。
だけれども、哀しみや憤りは湧くし、なおかつ利己的な懸念も抱いてしまい、両方の感情を持て余している。まとまらない。