今年の三月は久しぶりにゆっくりだし、四月からはもっとゆっくりだなぁと油断していたら、そうでもなくなってきてバタバタしはじめる。
新しい相談、友人からのバトンタッチ、条件交渉、新体制、云々。
休みたい気持ちはあるけれど、倒れかけたあいだにたくさんお世話になったので、がんばるしかないなぁと気持ちを切り替えて全部に答える。
都内に出るとそういうモードになるから不思議だ。
東京というまちは、猫にとってのマタタビみたいな何かが撒かれているのではないか。
ハイになってることにハイになるような何か。でも結局はまぼろしみたいな何か。
変だなぁとハイになりながら思い、指定された店につくと、そこは高そうでキラキラした中華料理店で、出るものすべてが美味しくて美しくて、その分恐ろしかった。何か裏があるのではないか。
結果的にはそんな大事件ではなかった。というか、ご本人にとってはそうだったのかもしれないけれど、ごく人間的な選択の相談をされただけだった。
わたしに「良いと思いますよ」と言ってもらうためにこれだけのコストを払うというのは、やはりちょっと大変な世界だなぁと思う。
卓上で語られた「これは第三次世界大戦だよ」という言葉は、紹興酒漬けの海老の上をかすめて消えていった。
曖昧に答えながら海老の顔色を気にしていたのは、おそらくわたしだけだ。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読みはじめた。
「あらためて確信したのはわたしたちの記憶というものが理想的な道具にはほど遠いということ。それはわがまま勝手なだけでなく、自分の時代に犬のようにつながれている。この人たちは自分が経験したそのことに惚れ込んでいる。というのも、これは単に戦争というだけでなく、彼らの青春でもあったのだから」