引き出しを開けて「やってやんぜ」と啖呵をきる。
珍しく闘志に燃えていた。
よくも悪くも言葉の強い人に囲まれて生きてきた。
よかったのは、こんな風に他愛ない日々を綴るのにも、さてどんな語にどんな表現を載せ、組み合わせてみようか、と選択肢を持てたことだ。
悪かったのは、強い言葉に縛られ、呪われがちになってしまったことだ。
発した本人がすっかり忘れようと、言霊に首元を縛られて震えが止まらないようなことが子どもの頃からよくあった。
そのうちの一つは、家族に言われた「あなたは外ヅラがいいから」の一言である。
見栄っ張りで中身がない、虚飾をしている、人目を気にして芯がない、誤魔化しがうまい、ひとから得ている評価が実力を伴っていない、本当のあなたはもっと最低でどうしようもない人間だ、恥ずかしくないのか。
……とまで言いたかったわけではないだろう。
それでもその人が時折見せる嫌な顔や厳しい発言を手がかりに線を繋いでいくと、わたしの中ではそのような連想が暗い星座として光り出す。
そして一番悪いパターンをその人の意図と想定し、勝手に記憶に刻み、繰り返し再生してしまうのだ。
最近は言葉と意識的に付き合えるようになったし、呪われそうになったら一緒に解きほぐしてくれる友人も増えた。
だから新規案件は大丈夫なのだけど、子ども時代の傷というのはどうにも治りが悪く、振り払っても振り払っても頭上でぐるぐるしてしまう。
何が言いたいかというと、この「外ヅラがいい」呪いと部屋の状態が結びつきやすくて、非常に困っているのだ。
例えば一見、家の中はすっきりしていたとしても、棚のあそこが、押し入れの上段が、引き出しの三段目が、ぐしゃぐしゃだと分かっているととても気が滅入る。
自分が「利己的な理由で、中身も伴わないのに虚飾をしている最低な奴」である動かぬ証のように思えてしまう。
歳を重ねて、それなりに「できる」ように見られるようにもなったからか、ますますその乖離が気になるのかもしれない。
部屋は部屋、人は人。
別物であるはずなのに、なぜだろう?
家の表面がすっきりきれいに保てているという達成感よりも、実際のところ行き届いていないのに誤魔化して生活している罪悪感に追い詰められる。
――わたしなんてろくな人間じゃない。中身は何もなくて、チートみたいな人生だ。本当は何もかも追いつかず、努力もせず、覚悟も足りず、今日もまた誤魔化して生きている。そしてそのことはいずれ全員に見破られ、見捨てられるのだ。
文房具がガチャつく引き出しを見ながら、そんなことまで考えはじめるのだから、我ながら手に負えない。
正直、わたしという奴はなかなか面倒な奴で、長年ずっと持て余している。
ということで、今日は仕事の合間に文房具の引き出しを「やってやんぜ」したのだ。
種類を分け、小箱に詰め替え、不要なものは捨てていく。そうして掃除が進むと、安心する。気が晴れる。
もちろん、引き出しはわたしの内面なんかじゃないし、内臓でもないし、人間性とは関係ない。でもどこかでやっぱり、片付けができると「自分もちゃんとした人間なのだ」と思える。
しかもすぐに他の引き出しがまだぐしゃぐしゃなことを思い出して気が焦る。
いやいやいやいや。一つひとつ、一歩一歩で十分。やれたことを褒めよう。
部屋は部屋、人は人。気になるあそこはまた別の日のお楽しみに。と唱えて今日をやりすごす。