朝、友人から届いたメッセージに一応の返信はしたものの、どうしたものかと思いながら家を出た。
ひっかかっているのがどこなのか、不安に感じている部分は何なのか、それをどう言葉にしたら伝えられるだろうと悩みながら陽炎を踏む。
本当は少し時間を置いてから会った方がいい気がする。
昼前に駆け抜けていったゲリラ豪雨のおかげで、湿度が高かった。灼熱。湧き立つ水蒸気のイメージが浮かぶ。
東京都現代美術館で「MOTアニュアル二〇二二 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展を観た。
若手四作家の扱うテーマはどれも重みを持つけれど、ここから目を離さない人がいることに救われる。
特に、冒頭と最後を飾る(その展示構成が素晴らしかった)高川和也《そのリズムに乗せて》に釘付け。
手元のリーフレットを見ると「本作は一部に暴力的、差別的、卑猥な表現や言い回しが含まれています」との注意書き。
五十分のムービー作品で、確かにわたしの身体性から見ればかなり不快なくだりが含まれる。
だけど、作者の中でどうしようもなく湧きあがってきた情動や思考を、プライベートな日記からわざわざ公の場に掬い出し、ラップという言語に乗せてなんとか消化しようと試行錯誤する過程がすごく興味深い。
「演技をするように、おおげさに読むんだ」とラッパーのFUNIさんに指導される場面では、このドキュメンタリー映像もまた、おおげさに作品らしくセッティングされながら撮られていることと重なる。
高川さんの無骨な試行錯誤と、恐ろしくキマっている画と音のギャップをおもしろがりつつ、特に心惹かれたのはFUNIさんの言葉だった。
「練習は自信を持つためだけにある」「口から出たものはすべてラップ」「言葉に出せない環境をどうにかしなきゃいけない」
FUNIさんの話をずっと聞いていたいと思いながら展示室で泣いた。ずるずる泣いた。こういうとき、マスクと暗室は便利だと思う。
そのあとコレクション展にも足を伸ばし、最後の最後に展示された、遠藤利克《泉》に今度は言葉を失くす。
どういうことだろう、一九二六センチの炭って。そんな収蔵作品って。おかしくないか。大きすぎる。
作品解説カードを見てみると、対象が大きすぎて写真としてうまく撮れていない感じがした。黒色のうまい棒にしか見えない。いや、誰がどう撮ってもうまい棒になると思う。
印象的な作品なのに言葉にすると軽くなるし、その良さは写真にも映らない。そこがいい。
時代のスケールが違うなぁとしみじみ思う。二〇二二年を生きる我々からは生まれそうにない一点。
展示室を出た頃には、朝悩んでいた連絡相手から、会うタイミングを少しずらそうかという提案がきていた。
わたしが抱いていた不安を察してくれたらしい。
申し訳ない。でもほっとする。言葉にするのは難しい。とても難しい。