お昼に口にしたえんどう豆のスープがとても美味しかった。仕事のちょっとした打ち上げで、都会でコースランチをいただいたのだ。
その後の打ち合わせで、友人でもある仕事仲間から「会話が苦手」という話をされた。静かな人ではあるけれど、意志を持って語る人なので意外な感じ。
でも会話の反射神経みたいなところでいうと、わたしが速さと話量で封じてしまっているところがあるかもしれない。反省。それでも、私たちはお互いの話を聞き、その後に解釈や受けとめを自分の言葉にしなおすという形式ができてはいる。もう少しそこを大切にしたいなぁと思う。
それにしても会話は得意……だろうか? 帰り道にそのことを考える。たしかに会話というやりとりに限っていえば、そこまで苦手じゃないかもしれない。
社会人になってから十年は広報職だったので、あらゆる立場の人と話題を繋ぎ、関心を惹き、プレゼンと思われないようにプレゼンしつつ、相手が不快にならないように応答したり盛り上げたりする方法については考えてきた。
ただ現在は、その染み付いた手癖が自分を生きにくくしている気もする。やりすぎてしまうというか。
あと会話より気になるのは、気が合ってるかどうかで。当たり前だけれど、自分と完璧に気の合う人などいない。でもその当たり前が未だに寂しくて、異様に傷つくときはある。
言葉尻ひとつ、感想ひとつ、何気なしに見つかった「違い」がときどき無性に寂しく、しばらく一人で引きずる。そのテンションの下がり具合を気づかれないよう、大事な友人に不快な思いをさせないよう、必死で会話の穴を埋めている節はある。
人と人が違うのは当然だ。それが面白いんじゃないか。という、前提は頭では理解してる。理解してるんだけど、じゃあそうだとして、どこまでの違いなら心地よくて、どう付き合えばいいのかが実はよくわからない。違うことがそもそも寂しいので、違いの大小が実はうまく測れない。
ずっと不思議に思ってきたことがある。みんなどうやって友人関係やパートナーシップを築いているんだろう。
わたしはパートナーにおいては違いを気にしないように頑張ろうとしすぎて、受け止めようとしすぎて、最後はだいたい決壊する。無理があるのだ。だからきっと世の人々は、言葉とか思考とかそういうカチカチとした要素じゃなくて、何か相手と当たり前にいられる感覚や安心感を抱けるんだろうなぁと長年想像している。周りを見渡しても、気が合ってるとは限らず仲のいい組み合わせは多い。それが愛や恋だというならば、いまだに手にしたことがないのかもしれない。振り返ると「強めの友情」と「おもしろい展開だという興奮」のカクテルみたいな感情をそう呼んできた。……もしかして違う?
それでいくと友人関係はずっとありがたくて、優しい。いろいろな人と時間と場所を分けていることができる。付き合う相手は一人じゃなくていいし、百パーセント一緒じゃなくていいし、約束みたいなものもない。気が合った瞬間を讃えあえる良さがある。でもときどき「完璧な味方になって欲しい」「いつも一緒に過ごして欲しい」という要望が寄せられると、それはわたしの友情からはみ出すことなので、すっとひいてしまう。なかなか面倒なことを言っている自覚がある。違うのは寂しいが、同化を求める/求められるのも恐ろしい。
なので今日もふらふらといろんな人と話したいなと思う。話しすぎると毎度勝手に傷つくし、そのこと自体が他者に対してとても失礼だと自分を責めたくなるので、ほどよく過ごしたいと思う。誰かといる時間と、そのあと一人になる時間の両方が大切だ。
もしも、わたしが生きる文化圏の中に(たとえば日本語をつかう人間が多数派の都市郊外圏など)共通した「人付き合いの型」みたいなものがあるたしたら、そのとおりにはたぶんやれない。けれど、わざわざ文化圏を離脱しなくても大丈夫な程度の、つまり世捨てや自暴自棄を起こさなくてもいいぐらいの、自分なりの型が見つかればいいなと長年思っている。
そうして大真面目に考え続ければ続けるほど、わたしの身体は言葉に縛られて柔らかな関係づくりが難しくなり、一方で言葉を軸にした仕事の手腕は妙に上がりうまく転がっていく。……ややこしいなぁ。