一昨日、小さな種がすーっと、突然、消えた。本当に言葉どおり「流れる」のだと知った。
命の予感のようなものを、宿したことは初めてだったけど、「在る」ときにはたしかにその信号が出ていて、「去る」ときには暗幕を引くように消えるのだと理解した。なるほど。
歳も歳だから覚悟していたし、身体に負担のかかるタイミングでも具体的な姿を確認できていたわけでもないけれど、頭で思い描くのと身体で感じるのは全然違う。
長時間の外仕事中に気づいてあっと思い、でも医学的にも何もできない誰も悪くない段階だと言われているしと冷静を装い、帰り道にチクチク痛むお腹をさすりながらここ一週間の会話を思い出してわーんと泣いた。
ここのところ毎晩、ポカポカと身体が温かくて仕方なかったのに、その夜はひどく冷えた。
M氏とは話し合って決めていたことで、この際順番はどうでもいいよねと言っていたものの、家で一人で味わうのはよいものではないなと思った。次は一緒に暮らしてから考えよう、そうしようと連絡を取り合った。
一人で抱えられなくて四人の友人とばらばらにこの話をした。
こういうことが沢山起こるから、本当に本当によくあることだから、普通はこの時期ひとには言わないらしい。
でもそれぞれと色々な話をしていて思ったのは、こんな出来事こそ(話せる人は)親しい人と普通の会話で話したらいいんじゃないかということだった。こんなに儚いものだとは、どの性に生まれていても案外知らないものだ。
人間が生まれるまでには本当にびっくりするぐらいの関門があると知る。生まれてきただけでみんな天才。すごいことである。
話した一人ひとり、話題は違う方に転がったけど、そうして消えてしまった種のことを囲むことで「在った」という箱に納めることができた。在ったんだね、在りうるんだね、ということを眺められてよかったなと思う。
今までの自分の生き方を振り返ると、予想外の気持ちだし意思だし出来事だった。こんなことが人生には起きるのかと驚いた。そして、こんなことがあちこちの身体で起きているのだと想像できていなかった。
先週は先の予定を想像して随分ばたばたしたから、さすがにもう少し順番と準備を整えようと思う。休みたいのに休めないのがつらいけど、この山を越えないとどこにもいけない。
お腹は少し痛むけど、身体は結局元に戻っただけ。気持ちも一昨日よりは回復した。悲しいというか無性に寂しかった気持ちは落ち着いて、今これからできることを考えている。