内営業日もあと三日。そのうち二日は静岡県にいて、今年最後の取材をして過ごす。
それはなかなか取材らしからぬ取材で。
でもわたしとしては本質的に取材らしい取材の形なのではないかと思いながら、一人のひとが積み上げてきた十五年分の言葉を、じっくり囲むことからはじめた。次に囲ませてもらった皆で、今度はその人の行為をなぞってみた。どうなるかはまだわからないけど、面白い企画になるはず。
「取材」って改めて考えてみると意地悪な言葉で。辞書を引くと「報道・創作などの素材を取ること」とある。かねがね暴力的になりかねない行為だなぁと思っていたけれど、語義をあたるとますますそう感じる。他者の人生や言葉や活動や表出を「素材」として取るだなんて。
よくメディアがいう「伝える」とか「届ける」といった言葉を「取材」の横に置いてみれば、矛盾の大きさに気づく。「構築したい情報に合わせたパーツを採ってくる」とはあからさますぎて誰も口に出さないけど、実際のところ「取れ高」という言葉は取材現場でよく使われる。
こういう仕事に就いてる人は、実はよくわかっているはずだ。
じゃあ、そこまで言うわたしの仕事や現場がそうではないかというと、残念ながら首を横に振る。完璧な方法なんてない。フラットになんて絶対できないのが取材行為だと思う。そこは理解しないといけない。
そのうえでなるべく倫理的に行動しようとしても、倫理の適用範囲が狭ければ、不均衡な構造をオブラートに包んでいるだけになってしまう。そのバランスがわるいとき、物事は「綺麗事」のフォルダに追いやられるし、「綺麗事」があからさまなとき、率直なひとは「露悪的だったり確信犯的な態度の方がまだマシ」と感じるはずだ。週刊誌的な、動画配信的なアプローチが「なんで受けるかわからない」なんてとても言えない。そうだろうと思う。互いの正義は違っても、それもまた倫理の話。
それでも、それでも、と思いながら、過去のどうしようもない失敗や後悔に苛まれながら、やれるなかで違う筋道を探す。今回もそう。
……なんて書くと、自分の内側から引き出した真摯な企画のようだけどそんなことは全然ない。自分が何かをコントロールできてると勘違いしない方がいい、それだけは肝に銘じとけ、みたいな結論にたどりつく。最近の敵は慢心と傲慢。
あと、頭も気もつかうべきだけど、最後の最後は頭でっかちなところじゃ動かなくて。案外どうでもいいような日々の小さな行動が、人間的なほころびや関心が、相手との距離を縮めたり、関係性を反転したりする。
今回少しだけ、やりたいことや見たい景色に近づけた気がして、それが今年一番の手応えなのかもなぁと思った。やわらかいものは手応えとして残しがたくて難しい。でもこのことは忘れたくないなと思う。
あと本当にどうでもいい話だけど、取材後に酔っ払って、蓋の閉まってないマッコリの瓶を逆さまにして酒を浴びたのが静岡出張のハイライト。しょうもない。しょうもないけど、自分らしくて笑った。翌日はマッコリに濡れたデニムで過ごした。